自転車を漕いで、坂道を上り、トンネルをくぐると海に出た。

真っ青な空に細長い雲、穏やかな日本海。

海だああああ。

心が躍り、自転車のスピードを上げる。

山々に囲まれた街に生まれ育った俺は、海を見るだけで妙にテンションが上がった。

海岸で自転車を止め、一人、海を眺めた。

爽やかな風が吹いていた。

就職して1ヶ月。覚えることばかりで、緊張のしっぱなしの毎日だけど、新生活は、それなりに充実している。

海を眺めた帰り道、親に手紙でも書こうかな、とふと思い立ち、コンビニで便箋と封筒を買った。

こんな機会でもなければ手紙を書くこともないだろう。

親に手紙を書くのは初めてだった。

拝啓　父さん、母さん。元気ですか。

やっと就職することができました。

父さん、母さんもほっとしていることだと思います。

せっかくの機会なので、日頃の感謝の気持ちを手紙に書くことにしました。

思えば、俺は、節目、節目で、つまづいてばかりですね。

大学受験も失敗したし、就職もスムーズに決まりませんでした。

心配かけてばかりで、ごめんなさい。

回り道ばかりしているけれど、今、こうして納得のいく人生が送れているのも、

父さん、母さんの応援があってのことです。

就職活動をするにあたり、俺は父さんの影響を受けているんだなあと思いました。

父さんは仕事から帰ってきても、家で仕事をし、休日には車をいじっていましたね。

俺には、そんな父さんが楽しんで仕事をしているように見えました。

俺が知らないだけで、実際は、いろいろ大変なことがあると思うけれど、

俺も父さんのように、やりがいのある仕事につきたいと思いました。

今の仕事に、やりがいを感じることができるよう、とことんやってみようと思います。

浪人を許してくれ、大学に行かせてくれて、本当にありがとう。

まずは、生き生きと仕事をしている姿を見せることが親孝行だと思うのでがんばります。

これから暑い季節になるので、お体に気をつけてください。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　敬具

何か照れくさいなって思いながら手紙を書き終え、郵便ポストに手紙を投函した。

父は農機具の整備士だった。

仕事から帰ってきても、家でよく仕事をしていた。

機械のオイルで黒ずんだ、ぶっとい指。巻き爪気味の爪。ごつごつした手。

そんな大きな手でボールペンを持ち、黒い手帳に黙々と数字や図を書き込んでいた。

毎日、毎日、黙々と。

父が仕事の愚痴を言っている姿を見た記憶がない。病気や怪我で仕事を休んだ記憶もほとんどない。

そんな父を見ていて、仕事が好きなんだろうなあって思った。

俺もそんな父のようになりたかった。

仕事に対して金以外の何かを求めていた。

それは一言で言えば、やりがいで、心を熱くする何かだった。

早く仕事ができるようになりたくて、毎日、必死だった。

仕事から帰ってきても、仕事のことばかりを考えて過ごした。

親に生き生きと仕事をしている姿を見せるのは思いのほか難しい。

社会は荒波だと、誰が例えたかは知らないが、その意味を知るのに、そんなに時間を要しなかった。

季節は秋に移り変わろうとしていた。

理想と現実には大きな開きがあった。

覚えることは山ほどあり、うまくできないことばかりだった。

社会人になって新たな自分の弱点を知る。


どうも俺は人の目を気にしすぎるところがあって、職場で悪口と思われるコソコソ話が耳に入ってくると妙に気になる。

またコソコソ話か。どうせ俺も悪口を言われているんだろうなあ。仕事できないからなあ、俺、とネガティブな妄想が勝手に膨らみ俺を苦しめた。

それが引き金になったのかはわからないが、心のバランスは徐々に崩れていき、張りつめていた緊張の糸はぷつりと切れた。

仕事の夢ばかりを見た。

朝、起きても、全然、疲れがとれない。

朝はあっという間にやってくる。

一日の中でも特に朝が辛い。

朝、起きて、煙草を吸って、トイレに行って煙草を吸って、歯を磨いて煙草を吸って、車に乗って煙草を吸って、駐車場に車を停めて煙草を吸って、朝の一つ、一つの動作が終わるたびに、煙草を吸って、やっと職場に辿り着く。

仕事に行きなくないなあ、と何度となく心の中で繰り返し、朝が始まる。

こうも毎日、毎日、同じような朝を繰り返し、ネガティブな感情が心の中を支配した頃には、何が辛いのかもわからない。

全てが辛い。

通常ではできそうなことまでも辛く感じる。

笑顔を作ろうとしても顔がひきつる。

ただ、ただ、仕事に来るのが、やっと。

いっぱい、いっぱいの毎日。

就職したての頃の勢いは跡形もない。

いっそのこと、ぶっ倒れないかな。ぶっ倒れたら、楽になれるのになと思う。

心はボロボロなのに、体は頑丈にできている。

どうして、皆、社会人としてやっていけるんだ？

俺は、社会に適応できないんじゃないか？

社会人１年目の破壊力は、それほどまでに、俺を打ちのめした。

辞めたい、辞めたいという言葉でいっぱいになった。

仕事を辞めたい。辞めてどうするんだ？また就職できるのか？金もない。だけど仕事は辞めたい。

何度となく繰り返す思考の堂々巡り。

苦しくて、逃げたくて、どうしようもないのに、仕事を辞めるという決断もできず、ただ、ただ、八方塞がりの毎日を送った。

神様は乗り越えられない試練は与えないと言うけれど、

乗り越えられなかった奴は、どうなっちまうんだ？

つづく